Im-provisation

至近距離、焦点がぼやけそうなほど近くで、ラメが細かく光る。

かすかに震える瞼の隆起から、瞳孔が少し上を向いているのが分かる。

口が開いたり閉じたりするのに合わせて、唇の密着度合いを細かに調節する。

舌が提示してくる面積に合わせて、適切な絡ませ方を実行する。

硬直したかと思えば、驚くほど柔らかくもなるその器官を不器用に扱いながら、彼女は彼女なりの陶酔に浸っている。

私は、精神と身体が分離したような奇妙な感覚のなか、彼女の身体が発話する愛らしいメッセージを解釈している。

それは明確な形を持たぬまま、私の胸郭の奥に安らかな温もりを与える。

じんわりと、確かに、なにかを満たしている。

未だ名付けられぬものたちの海。

温かい海。

口が閉じていく。

名残惜しそうに、ゆっくりと離れていく。

火照った頬と、うつろな目が、私を眺めている。

目を細め、口角を上げた彼女は、唸りながら甘えるように私の胸に顔を埋める。

横座りをしていた私はその重みを受け止めきれず、カーペットへと仰向けに倒れる。

温もりを孕んだ、シャネルのチャンスとヘアオイルの混ざった香りが、ふわりと辺りを色づけていく。

人間の温度。

自律的に思考し、行為する生き物。

私はまた一つ、出来事を積み重ねている。

 

 

 

髪を梳く。

後ろの小窓から差し込む眩しい朝の光に急かされながら、絡まった髪を櫛で引き離していく。

プチプチといいながら切れて落ちていく長い毛が、パワフルな朝日によって茶色くされている。

なんの権利があって、朝日はこんなに無神経な振る舞いをしているのだろう。腹が立つ。

髪の毛を拾う。

本当に朝日ってなんなんだ、人それぞれの目覚め方があるというのに。快活さを強制するな。

ゴミ箱に捨てる。

眩しい。本当に眩しい。この眩しさに目が慣れていくのは癪なので、できるだけ瞳孔が縮小しないように光から顔を背ける。

背けながら、箱を漁りメイク道具たちをピックアップする。

ふとなんとなく、重いものが胸につかえるのを感じる。

これはなんなのだろう。よく分からない。でも、私がこのプラスチックたちを箱にしまい隠しているのは、きっとこの錘(おもり)が嫌だからなのだろう。

鏡の前に座る。

日焼け止めを塗り、粉をはたき、薄くノーズシャドウを入れ、ハイライトを顔の凸面に乗せ、瞼にはラメ。アイラインを引き、マスカラとリップを塗り、ミストを顔に向かって噴射する。

プラスチックたちを収め、アイロンを取り出し、温めている間髪にヘアオイルを馴染ませる。

アイロンのランプが緑になったのを確認し、寝起き感が無くなる程度に形を整えていく。

これだけなら一瞬で終わる。忙しい朝にできることは限られている。

そういえば、最近ファンデーションを使うことがほとんどない。

ファンデーション、Foundation、Japan Foundation。

Japan Foundationがあるなら、N.Ireland Foundationがあってもいいし、Kipris Foundationがあってもいいし、なんならTokushima Foundationがあってもいい気がする。

もしかしたら全部あるのかもしれない。

クローゼットから白のブラウスと黒のスラックスを引っ張り出す。

全部あるとしたら、財源はなんだろう。北アイルランドキプロスにはボートレースがあるだろうか。あってもおかしくない気はする。

そもそも、なぜ日本財団はボートレースからお金を得ているのだろう。

よく分からない。分からなさに満ちた世界。

襟首に手をかけて気づく。ああ、なんで先にメイクをしてしまったんだろう。Tシャツを脱ぐ。こんなことで汗をかきたくない。時間は大丈夫だろうか。ジャージを脱ぎ捨て、服やら何やらを急いで身に着け、昨日の自分が中身を出していないことを信じながらいくつかのポーチをバッグに投げ入れる。

走りながら玄関に座ろうとして気づく。靴下。私はいつもこんなことをやっている。

 

 

 

コントローラーを握る自分の筋張った手首を見る。これの何がいいんだろう。

今日の人はこれに惹かれていたんだろうか。俺に惹かれていたんだろうか。

いつものモードを選択し、ルームに入室し、マッチング成立を待つ。

俺が撃っているのは人なのか、対戦相手なのか、また別の何かなのか。分からない。

マチエールを感じない。

手応えがない。

待機時間の表示が1分を示す。

背後のベッドに肘をつく。

布団を剥がれたこたつの寂しさが、その上に載るものの雑多さを際立たせている。

冴えない。大いに面白くない。

ルームは未だに埋まらない。

腰を右に捻り、安物のタンプラーに左手を伸ばす。

化学的なレモンサワー。

レモンのメタファー。

何だっていいふりをしているだけだ。

ルームは未だに埋まらない。

 

 

 

歯茎がヤニ臭い。右手でタバコとライターを探し当て、目を開けずに火を点ける。

紫煙が汚い天井に向かって昇っていく。こんなのただの、ただの何だろう。

俺は何と同等の存在なんだ。枕元の灰皿に灰を落とす。

テレビを点ける。つるつるした場所で、つるつるした人間がなにか言っている。

ベッドの上で壁にもたれながら、その前のめりなリズムを他人事のように眺めている。

この人たちも、いつの間にかこのリズムに投げ入れられただけなんだろうか。

抗うも受け入れるもなく、気づいた頃にはそうなっている、という類のリズムに。

心地よくない。噛み合わない。合わせようとすればするほどずれていく。

クローゼットのなかに収まる、ハンガーに吊るされたスラックスを思う。

君のおかげでなんとかなったこともいくらかはある。

折り目正しく、誠実に実直に。

動悸がする。気道が狭まる。視界がぼやける。

まだ長いタバコを捻り潰し、急いで新しい一本を咥える。

葉の香り。火を点ける。煙の津波

頭蓋に紫煙が染み渡っていく。

弛緩する筋肉とともに、世界がまた他人事になっていく。

 

 

 

時間を持て余している。ダラダラとスマホをいじる。

猫と犬と女の子しか出てこなくなったタイムラインを眺める。私は何をしたいんだっけ。

ゴミを出さないと。予約の時間を確認しないと。固まったマニキュアの溶かし方を調べないと。

ああ。あまりにもタバコを吸いたい。この欲望に背中を押してもらうしかない。

空き箱と灰皿を持って立ち上がり、ゴミ箱に捨てる。

その足で洗面所へ行き、歯を磨きはじめる。この調子だ。

前髪が割れ、ボサボサ頭で浮腫みきった顔面が、きちんとしたいというモチベーションの契機になる日は体調がいい。

口を濯ぎ、顔を洗い、新しいタオルで拭く。

クローゼットを開ける。スラックスをなるべく見ないようにしながら、普段着ることのない服を探す。

今日のリズムはどうだろう。服を眺めながら、胸の中心に意識を集中させる。

今の私は何を求めているんだろう。何になりたいんだろう。

これから、どのようにしていきたいんだろう。

集中する。

集中して、集中したのち、グレーのTシャツに手をかける。

今日の自分はこれにするらしい。

なるほど。

ジーンズを引っ張り出し、その場で着替え、ジャージを掴み洗濯機へと放る。

寝癖を直し、軽く化粧をし、鍵とスマホとイヤホンをポケットに入れ、ゴミを持ってドアを押し開ける。

生ぬるくて少し涼しい夏の酸素が全身を駆け巡る。

曇り気味の世界は蒼く、街灯のオレンジが映えている。

鍵をかけ、スニーカーの音を響かせながら階段を降りる。

ゴミ捨て場に袋を投げ入れ、自転車にまたがり、イヤホンを付ける。

キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』を選択し、ペダルを踏み込む。

バーコード決済ができる居酒屋はどこだっただろう。おそらく大通り沿いのローソンを左に入った通りにあったはずだ。そこのローソンでタバコを買おう。惚れ惚れするほど効率が良い。

そういえば髭を剃ったっけ。思い出せない。左手をマスクの下に差し込む。剃ってないな。まあいい。

つるつるした場所に入り、ライターを片手にレジへ直行する。右上から探し、一瞬でインディアンを見つける。やっぱり今日の俺は調子がいい。

ボックスのいいところは、角が尖っているところだ。

後ろポケットにねじ込み、またペダルを踏み込む。

街の空気が横隔膜をぐつぐつさせる。このわくわく感が都会の醍醐味だ。

左手に目当ての店を見つける。近場の駐輪場に入り、鍵をかける。

この街は人が多くて、アスファルトがごつごつしていて、何よりも色とフォルムが多い。

ガヤガヤした色とフォルムの洪水をかき分けながら、店へと歩を進める。

ジャレットのピアノと唸り声が、街の喧騒と混ざり合う。

彼の即興演奏が火花を散らしている。

何も決まっていない。improvisation。

そうか、im-provisationなのか。

 

 

 

体がふわふわとしてくる。

感覚が鈍る。世界と私がガラスで隔たる。

この一歩一歩は、訪れる形象は、感覚は、自分は、すべてはそうなんだと知る。

 

 

 

頭の中の何もかもが、一つになっていく。

スーツも鍵も家族も氷も書類も成績も預金残高も、すべてが溶け合っていく。

決めていること、決まっていること、決めるべきこと、決めさせられたこと。

 

 

 

ガラスが溶けていく。

主語が、視座が、世界観が溶けていく。

赤は私で、白は俺で、パルコはあなたで、

車は私で、雲はあなたで、光は俺で、

緑は君で、白はあなたで、黒は、黒は、......。